日本人と地震

日本人の一番怖い物は昔から「地震、雷、火事、親父」という諺がある。
現在、「親父」の方は「妻」だったり、「嫁」であろうか。
「地震」も「のど元過ぎれば熱さを忘れる」となにも起こらなかった如く脳の記憶は忘れていく。日本人の寛容さはどこからきているのだろうか。

平成になってから「阪神淡路地震」「東日本地震」と大きな地震が起きた。その復旧に関連者は日々おわれているが、傍観者でしかない個人は段々記憶の外へと追い出されていきつつある。

「脳」の「海馬」は新しい情報を記録するが、古い情報は「大脳皮質」に納められていく。古い情報に分類されると記憶は変質していくらしい。
日本の地震の記録は416年(允恭5年)の「允恭地震(いんきょうじしん)」からである。文字が伝来されてから記録され残った。以前の地震の記録は存在しない。4世紀後半以前には地震がなかったのだろうか。

599年(推古7年)には「推古地震」が起った。聖徳太子が予測したと言われている。文字を読めた太子は書物から地震の起る原理を知っていた。

日本列島は4つのプレートが押し合い引きあいしながら島国
を造り上げた。だから頻繁に地震は起こっていたはずである。
古代人は地震が起きたら「沈黙」しながらその恐怖に耐え忍んだ。逃げる場所が列島しかない。諦めるしかない。

その内、時間が経過すれば地震の震動が止まり、正常な生活に戻る。被害のあったところは人力と給付金で復旧させていく。
時間が恐怖の記憶を脳から消え去っていく。毎日の生活に戻るようにトラウマを克服していく。
しかし、天の采配はそれなりに責任を問いかけてはいる。

827年(天長4年)には「京都群発地震」がおき、淳和天皇(じゅんなてんのう)は「不徳の詔」を発した。
830年(天長7年)には「天長出羽地震」が起き、淳和天皇は二度も「不徳の表明と援助の詔」を発し、833年(天長10年)には甥の正良親王(まさらしんのう)(仁明天皇)に譲位してしまった。
「地震」は天に近い「天皇」の治世に責任があると考えられていたのだ。皇族も摂関家も黙しているだけである。

一人、菅原道真だけが中国の書物により「地震発生の原理」を理解していたようだ。文官登用試験に「地震の起る原理」を問われて回答している。試験官も知らない回答だったが、それで受かった。後に失脚する遠縁でもある。
 日本人は地震に対して沈黙し、そして忘れることで責任逃れをするしかない。自分には「地震の発生」には関りのない地位である。ただ生き延びるために頑張るしかない。そして、日々の生活に埋没し。次の地震は私の所にはこないと信じている。
しかし、近々に南海トラフ巨大地震」が予想されている。私には関係ないとも言っておれない状況である。

もっと地震について、いや、列島について知識を広げていかなければならない。
「備えよ常に」とは軍国時代の用語であるが、地震についても当てはまる。
頭の片隅に地震が起きたら、どう逃げようか。どう対処すべきか。どう生存を確認しあおうかと相談しておく必要がある。
「天災は忘れたころにやってくる」という諺があるが「忘れる暇もなくやってくるのは確かだ」

文責:和田